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途中下車の旅 [エッセイ]

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 戦後ボクは大井町で生まれ結婚するまで暮らした。
バラックで水道が外にあり水くみがボクの日課であった。
空き地が多く日が暮れるまで外で遊んだ。
一つ上のMちゃんや同い年のボーヤやKちゃん、
少し年が離れたKさんが仲間でボクは遊びについて行った。
ギヤマンと呼んでいた崖で穴を掘りよくどろんこになった。黄色く脆い土だった。
崖の上には畑があり麦や玉蜀黍を作っていたが良い遊び場だった。

 昭和29年大晦日、よく海から汽笛が聞こえてきたが、時代が変わって行くと思った。
この時を漠然とだが記憶しておこうと思った。
家は貧乏だったが皆が似たり寄ったりの生活だったので恥ずかしいことはなかった。
立会小は駅近く、
今の公会堂の場所、にあり青空学級を見たことがあるがボクが通うころは立会町に移っていた。
巡回映画がきて風の又三郎を見た。風に揺れたスクリーンだった。
校庭の南端には高射砲の石台やトロッコの線路があった。
北側には山内容堂の石碑、墓だったが、建てられていた。
近くの海晏寺は岩倉具視縁の寺でボクの遊び場でもあった。
此処の墓地にも高射砲の台座があった。
戦争が終わってまだそんなに経っていない時代だった。

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 平成になり転勤を経験していたが、
湘南の事業所に異動することになったときボクは迷わず大井町で暮らした。
仙台藩下屋敷の隣のアパートだった。
懐かしい顔ぶれに会えるかと思ったが同級の女性と駅で一回逢っただけだった。
多くは多分引っ越したのだろう。
蛇段段を降りて来福寺に行ったが中学の時席を並べた女の子の家はなかった。
関ヶ原から見晴通り商店街を思い出深くぶらぶらしたが小さな商店街だった。
でもそこには懐かしい小中学校の友達の商店が昔と変らずに在りひとりひとりの顔が浮かんできた。
四年と少しの暮らしだったが昔の仲間とはついに会わなかった。

 思い出の大井町だがそんな話も肴に飲んでくれる人がいて、会社の友人だが、
駅近くの飲屋で夜を明かしたことも何度かある。
記憶が薄れないうちに書きとどめた。
 
 時超えし夏の日差しのファンタジー
 

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